どちらにも属さない橋。
2003年4月11日 「ペンギンの集団に誘拐される夢」を見ました。一体(汗。
テレビで17世紀に沈んだ軍艦の深海調査をやっていた。在りし日の華麗な装飾を見て、妙に納得してしまいました。今とは大違いですよね。
その後はロンドンの地下から出て来たハドリアヌス帝時代の水路の復元番組。こういうのはいつ見ても飽きません。
今日も小説の第2部を書いていました。
とある方の日記を読んで、徒然と考えたことを一気に書きます…。
幼稚園・小学校と仏の現地校に通っていました。割と色んな国の子がいて、言葉が話せなかった時は他国の子が「私も分からないけど、大丈夫」と励まされました。先生も積極的に日本の文化を知りたがる人で、文字を書かされたり、羊羹を持って行ったりしていました。でも時々「ここからは日本人には分からない遊びだから」とか言われて私達日本人が仲間に入れないこともありましたが…。その時の課題は進級試験で「もっと主張しなさい」と言われ続けたこと。
日本の小学校に通った時、「海外のことは話したら駄目」と言われた。沢山質問されたけれど答えるといつの間にか苛められたりした。とにかく日本語を覚えていかないと、友達や先生とも上手くやっていけない。でもそれだけでは駄目で、ものの考え方から吸収しないと、はっきり主張する習慣なんかは受け入れられなかった。最終的には、「何でも控える」ことで随分良い関係が築けました。
中学で仏の日本人学校に行った時が一番妙だった。「色んな日本人」が一同に介した感じ。日本から来た人、現地校から来た人、ハーフの人、ずっと日本人学校で来た人…。
教室の中は妙な具合に文化交流の場で、絵の具が混ざり合うように日本語やらフランス語やらが飛び交い、お互いのことは「見たまんま、そのまんま」で受け止めあう努力の元に、「一歩手前で言わない」ような会話が展開されていた。これは一番疲れた。一見和気藹々ですが失敗が帳消しにされないようなもんです。その分は上記2つの学校の方が随分気が楽でした。ここで今の相方と会ったわけですが…。
結局、裏表のない現地校組の人達とが一番話しやすかったです。その人達がインターや日本に去った後が鍛えられましたが。学校そのものは自由な気風で楽しかったです。
子供時代に感じたのは、「国を移動している子に常に努力が求められる」ということ。
ここで今の自分→フランス語:母国語の認識で憧れや喜びで学ぶことはない。日本語:後から知った美しい言語と認識。魅せられている。英語:外国語として認識。焦って学んでいる。
…主張の仕方は?…そのパワーは創作につぎ込まれているかも。
以上のことから、「橋でありながらどちらのものでもない橋」な自分がいる。互いの文化の違いによって遮られるものに疲れてしまうことがある。
もちろん、理解して尊重し合うのは大事なことだと思います。踏まえておくから分かり合えることで随分良い経験をしました。
イギリスに来て、やっと両方のプレッシャーから離れて純粋に文化を研究することに熱中できるようになりました。
どちらも愛する国ですが、子供時代に「どちらにも受け入れられ、受け入れられなかった」ことが、そういう橋を作ったのかも知れませんね。そしてそんな橋は自分だけではないかも知れない。
その想いが、童話に注ぎ込まれています。「国境を取り払うか認めるか」。自分の永遠の課題かも知れません。どちらも不可欠なものだと思います。
全然関係ないですが、小さかった頃、フランスに馴染むまでは絵に必ず「日の丸」を描いていたらしい。どんなこと考えていたのかな、私。
ちなみに相方さん「自然体でいいんじゃない」。…そうかもね。
テレビで17世紀に沈んだ軍艦の深海調査をやっていた。在りし日の華麗な装飾を見て、妙に納得してしまいました。今とは大違いですよね。
その後はロンドンの地下から出て来たハドリアヌス帝時代の水路の復元番組。こういうのはいつ見ても飽きません。
今日も小説の第2部を書いていました。
とある方の日記を読んで、徒然と考えたことを一気に書きます…。
幼稚園・小学校と仏の現地校に通っていました。割と色んな国の子がいて、言葉が話せなかった時は他国の子が「私も分からないけど、大丈夫」と励まされました。先生も積極的に日本の文化を知りたがる人で、文字を書かされたり、羊羹を持って行ったりしていました。でも時々「ここからは日本人には分からない遊びだから」とか言われて私達日本人が仲間に入れないこともありましたが…。その時の課題は進級試験で「もっと主張しなさい」と言われ続けたこと。
日本の小学校に通った時、「海外のことは話したら駄目」と言われた。沢山質問されたけれど答えるといつの間にか苛められたりした。とにかく日本語を覚えていかないと、友達や先生とも上手くやっていけない。でもそれだけでは駄目で、ものの考え方から吸収しないと、はっきり主張する習慣なんかは受け入れられなかった。最終的には、「何でも控える」ことで随分良い関係が築けました。
中学で仏の日本人学校に行った時が一番妙だった。「色んな日本人」が一同に介した感じ。日本から来た人、現地校から来た人、ハーフの人、ずっと日本人学校で来た人…。
教室の中は妙な具合に文化交流の場で、絵の具が混ざり合うように日本語やらフランス語やらが飛び交い、お互いのことは「見たまんま、そのまんま」で受け止めあう努力の元に、「一歩手前で言わない」ような会話が展開されていた。これは一番疲れた。一見和気藹々ですが失敗が帳消しにされないようなもんです。その分は上記2つの学校の方が随分気が楽でした。ここで今の相方と会ったわけですが…。
結局、裏表のない現地校組の人達とが一番話しやすかったです。その人達がインターや日本に去った後が鍛えられましたが。学校そのものは自由な気風で楽しかったです。
子供時代に感じたのは、「国を移動している子に常に努力が求められる」ということ。
ここで今の自分→フランス語:母国語の認識で憧れや喜びで学ぶことはない。日本語:後から知った美しい言語と認識。魅せられている。英語:外国語として認識。焦って学んでいる。
…主張の仕方は?…そのパワーは創作につぎ込まれているかも。
以上のことから、「橋でありながらどちらのものでもない橋」な自分がいる。互いの文化の違いによって遮られるものに疲れてしまうことがある。
もちろん、理解して尊重し合うのは大事なことだと思います。踏まえておくから分かり合えることで随分良い経験をしました。
イギリスに来て、やっと両方のプレッシャーから離れて純粋に文化を研究することに熱中できるようになりました。
どちらも愛する国ですが、子供時代に「どちらにも受け入れられ、受け入れられなかった」ことが、そういう橋を作ったのかも知れませんね。そしてそんな橋は自分だけではないかも知れない。
その想いが、童話に注ぎ込まれています。「国境を取り払うか認めるか」。自分の永遠の課題かも知れません。どちらも不可欠なものだと思います。
全然関係ないですが、小さかった頃、フランスに馴染むまでは絵に必ず「日の丸」を描いていたらしい。どんなこと考えていたのかな、私。
ちなみに相方さん「自然体でいいんじゃない」。…そうかもね。
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