考えるためのメモ。
2003年8月14日 創作の姿勢については、いつも自問自答を繰り返している。
まだ見えない将来や出会いや夢、自分のパワーといったものに任せて書いていたこともあるけれど、それでは足りない。
日常の目に留まったもの、日々様々に浮かび上がる疑問と考察、答え、それでも足りない。
人の間で展開される心のやりとり、言葉の駆け引き、遊び、真心、それでも足りない。
とあるゲームで目にした言葉。その彼は「何故に自分は音楽を弾くのか、何故音楽でなければいけないのか」ということについて考えていた。
その彼の演奏に対して、同じ楽士の主人公達は「迷いのある音楽だ」と、「雑念で満たされている」と言う。
そして悩んでいた彼は主人公達の演奏を聴いて「純粋に音楽を楽しむ心が必要だった。僕は求めていたものを見つけた」と。
私は物語を何故書くのか、誰のために書くのかと、以前にも考えていた。大学で強く答えを問われてから、それまでただ好きで書いていたものに確実な形が必要になって、ずっと考えていた。
ゲームの彼が出した答えは、原点に立ち返ったというよりも、彼が求める音楽を耳にすることによって、自己の追求するものが見えたから、そう言ったんだと思う。
私には、文章は自問自答をする場所であり、幾つかの例え話をする場所であり、見聞きしたものを使う場所であり、心の中に止めきれない感情や叫び、訴えをこめる場所でもある。
だが、それだけでは、「どんなスタイル?何を書きたいのか?誰のために?」という答えを出すことは出来ない。
ここで、ふと、文章から心を離してみる。
私には、ピアノという良き友がいる。
幼い頃から、良き話し相手であり、ピアノは沢山のことを私に教えてくれた。
音楽は、正直だ。
選択肢はない。
その指を鍵盤に下ろした瞬間に、自分の姿が赤裸々に表れてしまう。
そして、正直に表れるからこそ、追求すればする程、自分の求めるものにどんどん応えてくれる。
ピアノを弾いているときには、確かに見えるものがある。
伝えたい音がある。
その音を聴いてイメージして欲しいものがある。自分の魂の力を感じて欲しいと思う、私が見ているものが見えて欲しいと思う、そして、曲に秘められた解釈や魅力の片鱗を少しでも感じとって欲しいと思う。
そのために技も磨くし、知識もつけるし、耳も感受性も育て続けようと思える。
多分、それが、文章にも託していること。だが文章ではどうも漠然としてしまう。
文章は私にはもっと怖いものだ。選ぶ言葉でまるで変わってしまう。
だけど、「ピアノに追求しているものが私がものを書く上で追求しているものです」ということは出来るのではないか。
私はピアノはロマン派、絵画は印象派が好きだ。人間の見ているものに興味がある。人間が何を考えて見ているのか、何故それを見るのか。どう映っているのか。
最近は人間そのものに興味がある。テレビでFame(歌手養成企画)を見ていると、3日ごとのオーディションで彼等はどんどん変わっていく。どこが変わったのか、どうやって変わるのかに興味がある。
これまで悩んできた私にも、一つの答えが浮かんだ。
私はまだ大海の最中にいる。自分がより多くのものを吸収して生じる軋轢のなかでもがいているに過ぎない。
不審、疑心、失望、混沌がすぐに飲み込もうとする。理性と想像がうまく働かないときもある。でもそれは人間としてのバランスを失っているだけ。そしてそれがないと今までの自分を変えていくことも、また出来ない。既存のものを壊すことも大事だと思う。
そこからまた、新しいものが混ざって新しい自分が創られる。
要は変わらないものはあるけれども、それを構成するものは常に変化し、豊かになり、広がっていく。
そして変わらないものを確認するには、赤裸々な自分に出会うことは必要なのだと思う。
だから今の私は「何故、どうして」の答えを出す前に、自分に出会った方が良いのだろう。
一日の中で、自分に出会うことは、ありますか。
まだ見えない将来や出会いや夢、自分のパワーといったものに任せて書いていたこともあるけれど、それでは足りない。
日常の目に留まったもの、日々様々に浮かび上がる疑問と考察、答え、それでも足りない。
人の間で展開される心のやりとり、言葉の駆け引き、遊び、真心、それでも足りない。
とあるゲームで目にした言葉。その彼は「何故に自分は音楽を弾くのか、何故音楽でなければいけないのか」ということについて考えていた。
その彼の演奏に対して、同じ楽士の主人公達は「迷いのある音楽だ」と、「雑念で満たされている」と言う。
そして悩んでいた彼は主人公達の演奏を聴いて「純粋に音楽を楽しむ心が必要だった。僕は求めていたものを見つけた」と。
私は物語を何故書くのか、誰のために書くのかと、以前にも考えていた。大学で強く答えを問われてから、それまでただ好きで書いていたものに確実な形が必要になって、ずっと考えていた。
ゲームの彼が出した答えは、原点に立ち返ったというよりも、彼が求める音楽を耳にすることによって、自己の追求するものが見えたから、そう言ったんだと思う。
私には、文章は自問自答をする場所であり、幾つかの例え話をする場所であり、見聞きしたものを使う場所であり、心の中に止めきれない感情や叫び、訴えをこめる場所でもある。
だが、それだけでは、「どんなスタイル?何を書きたいのか?誰のために?」という答えを出すことは出来ない。
ここで、ふと、文章から心を離してみる。
私には、ピアノという良き友がいる。
幼い頃から、良き話し相手であり、ピアノは沢山のことを私に教えてくれた。
音楽は、正直だ。
選択肢はない。
その指を鍵盤に下ろした瞬間に、自分の姿が赤裸々に表れてしまう。
そして、正直に表れるからこそ、追求すればする程、自分の求めるものにどんどん応えてくれる。
ピアノを弾いているときには、確かに見えるものがある。
伝えたい音がある。
その音を聴いてイメージして欲しいものがある。自分の魂の力を感じて欲しいと思う、私が見ているものが見えて欲しいと思う、そして、曲に秘められた解釈や魅力の片鱗を少しでも感じとって欲しいと思う。
そのために技も磨くし、知識もつけるし、耳も感受性も育て続けようと思える。
多分、それが、文章にも託していること。だが文章ではどうも漠然としてしまう。
文章は私にはもっと怖いものだ。選ぶ言葉でまるで変わってしまう。
だけど、「ピアノに追求しているものが私がものを書く上で追求しているものです」ということは出来るのではないか。
私はピアノはロマン派、絵画は印象派が好きだ。人間の見ているものに興味がある。人間が何を考えて見ているのか、何故それを見るのか。どう映っているのか。
最近は人間そのものに興味がある。テレビでFame(歌手養成企画)を見ていると、3日ごとのオーディションで彼等はどんどん変わっていく。どこが変わったのか、どうやって変わるのかに興味がある。
これまで悩んできた私にも、一つの答えが浮かんだ。
私はまだ大海の最中にいる。自分がより多くのものを吸収して生じる軋轢のなかでもがいているに過ぎない。
不審、疑心、失望、混沌がすぐに飲み込もうとする。理性と想像がうまく働かないときもある。でもそれは人間としてのバランスを失っているだけ。そしてそれがないと今までの自分を変えていくことも、また出来ない。既存のものを壊すことも大事だと思う。
そこからまた、新しいものが混ざって新しい自分が創られる。
要は変わらないものはあるけれども、それを構成するものは常に変化し、豊かになり、広がっていく。
そして変わらないものを確認するには、赤裸々な自分に出会うことは必要なのだと思う。
だから今の私は「何故、どうして」の答えを出す前に、自分に出会った方が良いのだろう。
一日の中で、自分に出会うことは、ありますか。
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